自作系移住支援 - 事業コラボの村 - 100万円の家作り

ソーシャルビジネス系 資本力に関係なく社会問題に取り組む事業や個人に対し、「低予算で住宅や設備を作れる自作環境」 を提供して行きます。 

自由について

自由について様々な見解があるけども、
だた勝手きままである事を自由だとしない人は、
自由は色んな「なんでもある事」から自由である事だと考えるようだ。
僕は一切合切の事から影響を受けない物事の否定に自由があるとは思わないのだけども、
まずは見て見る。
 
自由は低次の欲望から自由であり、
翻弄する感情から自由であり、
頭を常に批判対象に向けてしまう低次の正当主張から自由である。
これは勿論そうだと思う。
しかし、ありとあらゆるものから自由であろうとし、
人への共感からも、究極には自分の意志からも自由であろうとして、一切合切の何かを求める事から自由であろうとしたら、
最後に残るのは、自由よりは、全ての事との無関係、あげくは無関心;世界と自分との完全なる逸脱という事になるだろう。
多くの人は、ここまで考えたら、それ以上、考えを最後まで追求する事に意味が無いと見て、
ー 自由は現実との妥協が必要だ -
として、そこまでになかった「妥協」の考えを持ち出す。
哲学者の多くは、妥協を持ち出してそれまでに考えた一切合切の事を元の混沌に戻そうとはしないが、その結果、非現実的になる事も多い。
 
しかし、自由が客観的に存在するのであれば、
そこには第三の全然別の領域がある筈なので、
そちらを少し僕流に見てみたいと思う。
 
先程ある人がショーペンハウアーの考えを思い出せてくれた。
ー 自由でありたいものは孤独を選ばないといけない -
というのがそれなのだが、
ショーペンハウアー自身の自由な解釈であると認めた上で、
こう言ってみたい。
 
ー 自由は、自由を孤独と結びつける事からも自由であるのだと。ー 
 
孤独も時に重要であり、自由が孤独を求めてはいけないとは思わない。 
勿論、他方で集団圧力に屈するような妥協からも自由ではあると思う。
 
ー しかし、自由意志があるという前提からは、僕は自由に友人を探す事もできる。ー
 
孤独の恐怖から逃れる現実的な妥協としてダチを探す事もできるけれども、
その場合、勿論孤独の恐怖から自由ではない。
勿論、人間を見失いそうな孤独の後に人として接してくれる人間に出会えたら、それは命の恩人に出会う体験であり、高次の必然があると思う。
 
それは別として現代人にとかく多い問題;常に日頃潜在的に孤独を恐怖している事;これは人をあまり自由にしないと思う。
 
孤独の恐怖を忘れる程強い好奇心と関心を持って友達を得る事もある。
共の切磋琢磨が自分の成長にとって良い影響を与えるだろうと想像できる相手を友に選ぶ事もできる。
 
自由に肝心な事は自由に「選べる」事だと思う。
 
選ぶ事にも様々な次元がある事をどこかで理解しつつ、
とりあえずは何事も自由に選べなければ発展の可能性がない。
 
僕は様々なモラル的固定観念からも自由でありたいので、
人の情熱がとりあえずのところどこに向かっていようがいいと思うし、自分や他人の様々な欲望に対して寛容であると思うのだけども、
ここでは哲学をしたいので、低次だの高次だのという話をする。
 
自由は何でもしたい放題の勝手さとはどのように違うのか。
徳であるものを見つけ、その自由な選択に従う点が勝手なしたい放題とは異なる自由の本質だと思う。
勝手なしたい放題の中では多分、自覚から離れ、結局は欲望や衝動の奴隷となり不自由となる。
それに代わって徳であるものに自由意志が従った時は、失敗を反省して学習する自由もある。
自由意志を前提とするのならば、
自分が賢いと思った「自由についての解釈」を自由に選択できる事も自由に含まれている。
 
「何も求めない事」が自由だとするのは明らかに間違っている。
何も求めていないのなら、自由も求めていないという事になるから。
 
ありとあらゆる事を自由が自由に選択できる時、
自由はどうでもいい事に向かうか?
人間の中にある様々な欲望は一見どうでもいい事にも向かう。
しかし、人に内在する自由のポテンシャルを見た時、
それは常に意識していなくても自分が向かう方向を既に知っており、徳である様々なものに向かっている。
 
自由を求める魂であるのなら、様々な欲望の真の意味を究明しようとする。
未然に定義されたモラル教義の類は体験が得られる深い観察を阻止する為、
自由でないものを否定する事イコール自由への探求だとは思わない。
 
否定をする時、僕は否定をする対象に縛られているが、
肯定をする時その縛りがない。
自由を肯定する時、僕はいかなる縛りもなくしてそれをする事ができる。
 
徳あるものはより美しい社会を創造する喜びと共にある。
自由へのポテンシャルは人間の一番核の部分にあると思う。
その核の部分で僕は眠っている事はできる。
実際、普段は眠っている事程気持ち良い事はない。
核から離れた裾野に滞在する事もできる。
依存関係なども体験してみるのは非常に面白い事だと認めたい。
しかしある時、自由のポテンシャルが自分の中で叫び、自由に目覚めようとする。
そして広い世界中を旅して、どこで自由に生きられるか、必死になって探してみたりするけども、
理想の故郷は既存のものとして与えられておらず、むしろ創造する未来形にある。
 
つまり人は自分の幸福を半分は自分の創造によって手掛ける。
 
自由を探す動機が不安や恐怖であるうちは、自由の国に到達しても、自由を見逃すだろう。
自由には、自分の役割を限定するという自由もあったり、
自分の天職に向かうというような自由もある。
つまり何らかの「制限」や「制約」、あるいは「限定」を自分に与える事も「自由」はできる。
 
そこで何があるか。
 
ー 自由から選択した制限はむしろ自由を生む。ー
何でもありが深みを生まなくなった時、僕は自分の職業その他を一つの事に限定し、その中でより大きな創造力を開発する事ができる。
 
例えば、お金を使う事に制限を設ければ、色々不便はあるが、
制限を設ける事が、むしろ工夫を生み、発想をお金への縛りから自由にする事もある。
 
あるいは、何かの職業に自分の役割を限定する。
すると、的を絞っただけ人は物事に深くなり、
その深さの中で再び自由を見出す。
 
そしてそちらの自由の方が、とかく「何でもありの自由」よりよほど広い創造の宇宙に繋がっている。
 
ー 物事に深くなると自由になる為、専門を持つ事が世界の細分化になるとは思わない。ー 本当に一つの事を全うしようとすると、専門的な知識の中に世界観も求められるようになってくる。
 
活動は自由にとって常にいい筈;自由意志を体感する機会は活動にある筈だから。
イマジネーション、思考、行動、全ては活動であるとした中で、
何か特別な情熱を選ぶ事もできる。
 
時間つぶしや様々な快楽を楽しんでいる時、様々な度合いで居眠りしている事はできるが、必ず目覚める瞬間があり、心の奥底ではもっと意義がある事に向かいたいと感じている。
上手くこの世との接点を維持しようとしたら、快楽故に自分の人格を完全放棄しないまでにして、自我が奥深くで目覚めている事も可能だと思う。
 
実際意識が目覚めている事が常であったら、生命力は消耗するだろうし、子供が誕生する事もないだろう。
眠りには大きな必要がある。
意識ない眠りにて人は全てを育んだ宇宙へ解放され、
そこで見聞きした事を忘れて朝に生まれて来る。
地上では自然界や物質界、人間界にどっぷり浸かり、具体的である事が探される。
 
両方の世界との深い関わり - 沢山の世界との深い関わりには人間が生まれて来る事の理由が隠されていると思うし、
どれかの世界に早々とさよならを言う事が自由であるとは思わない。人間として限りあるものになったら、自由もフルに体験できなくなるだろうと思う。
 
必然的に紆余曲折があるだけで、人は基本的に徳であるもの、美しいもの、真実であるものに向かっている。
犯罪は自由意志が行う事はない。
恐怖、嫉妬、何かへの病的な執着といったものは、人がそれらに完全に支配されてしまった時に犯罪に向かう事があるが、
自由の体験が既にあった場合、あえて嫉妬その他の情念の虜になろうという人はいない。
 
自由を体験させる事は教育者の大きな課題だと思う。
自由意志を否定した指導は、
人を自分の中に生きるものに自ら目覚めさせる機会を与えず、
心の体験を失った学習は非常に表面的なものになる。
失敗をする自由があるという事、過失を犯す自由があるという事は、自由とそれ以外の区別を習得して行く上で、前提条件ですらある。
 
自由の身が心から社会の徳である事を求める人間に育てるか、
自由の身でないものが社会の「掟」に従うようにするのかは、
精神生活の自由において雲泥の差を生む。
 
掟に従う事しか知らない人間は、掟の束縛から解かれた時に、
自分の情念をコントロールする能力に欠ける。
そこには自由の本質における体験不足という現象が確かにある。
 
また、物事を精神性にて掴んでいなければ、外界の掟というものは時と場所と状況を見間違えたり、あるいは意図的にすり替えたりする事によって、人を傷つける凶器に化す。
 
自由な人間でなければ、現実の中にケースバイケースを見出せない。
 
掟や戒律が内面にある真実を外界の現れと置き換えようとする事は非常に危険な事だと思う。
 
自由意志を発芽させる機会を得た人間に限って、
「この道を選ぶべき」という他者からの指示から自由である事ができるし、
些か自由を損なう事なく、自らの自由選択によって、アドバイスをくれる良き師の元に集う事もできる。
自由は具体を避ける類の抽象的な客観からも自由である事ができる。
 
自由は活動、とりわけ創造における無心の遊びと共にある。
 
子供はまだ半分精神界に属しており、子供の遊びは如何なる束縛や固定観念からも自由であり、後に知る事になる執着や欲望から自由になる。
 
無の中立が与えられた時、人は能動的な活動をする自由を奪われる。
 
歴史の授業において「中立」が重要だなどと言われているが、
誰がその中立を定義するかという回答は得られる筈がない事はさておき、想像力の自由な活動を阻害する無気力の強要である事がまずい。
 
ゆらぎがなければ中心を見出す事はできない。
 
客観性は無関心な中立にあるなどとするバーチャル程酷いものはない。
 
歴史の例では、そこに敵味方に分かれた二つの国があったとして、客観が一方への感情的な加担から自由である歴史観を求めるとしたら、
感情を排除するのではなく、
敵と味方に分かれた陣営の両方からの異なる視点から物事を見る能動的な活動が必要になると思われる。
 
人間界のドラマを排除した歴史の学習などに意味がある筈がない。
 
自由と高次の客観は切り離せない関係にあると思われる。
 
両方が人間の本質の中に備わっている。
他者に内在する客観の存在を否定する人は、まず自分の中で問題の解決を見つけるべきだと思う。
世界は自分の鏡でもある。
 
他者に対して信じる自由の可能性は、自分の中にて存在する自由の可能性だから。
 
自分が自由でなければ他者にも自由を認めないだろうし。
 
味方と敵の間に第三の客観の目があるとして、その客観を、両者への共感がない冷たい抽象概念の中で探してみても得るものはない。
 
とりわけ敵に感情移入する事への恐怖からも自由になり、冷静に感情移入や共感もしてみないと、客観などは得られないだろう。
 
自由だと思う事は、それが主観的な自由なのか、客観的な自由なのかが大きな問題だが、
 
客観的な方向で探求がされ、普遍性にて共有できる理解を生む事ができれば、教育などはその本質が良くなる筈。
 
自由について様々な哲学や宗教が教える事から自由である事も可能であるし、
逆に、自分が正しいと思う「自由についての解釈」を様々な哲学や宗教が教えるところから学ぶ自由の選択もある。
科学が「頭脳」の「思考能力」や「意識」と名付けるものは、その抽象のままではあまりあてにならない。
 
人間の中には、感情や欲望を引き金とする「考え」も多々存在するのは勿論。僕も多々知る。
その多くが「思考」と呼べる程ではない「考え」の部類ではあるけども、それらが全てではなく、それらを超えたところに大きな精神生活の自由が展開している。
 
人がイマジネーションを活動している時、
イマジネーションは過去の物事の反芻とは違い、
それまでの人類の歴史になかった未来のものをも手繰り寄せる事ができる。
 
歴史は繰り返しであるという見方は間違っている。
個々の文明を詳しく見れば、それまでの歴史になかった事が起こっている。
 
過去から引きずったり、過去の前例を真似るだけではなく、
未来にある結果から現在を計画する事は可能だし、
無いものをあるものにする創造的な活動においてはそれが必ず起こっている。
 
結果にある物事を想像し、そこまでの工程を考える事は、
料理をする時にも家具を作る時にも、実際に行われている。
過去の繰り返ししかなければ世界は更新されないが、
人は過去からの命令に対して自由である事もでき、未来を先取る事もできる。
 
早とちりにならない為にも、未来から現代に通じる道を、未来から時間を逆行して探り、人々と共有され、社会にもたらされる形を探す。
 
人類と接点がないものを未来的とする抽象的な意味は解らない。
 
精神的に新しい流れは、未来から来て、現在を過去と未来に繋げる創造の努力としてある。
 
過去から指導を受けない未来からのインスピレーションがどれだけ自由であるかは、外界に見える事柄だけを基盤に取るか、
それとも未来の物事に足場を得るかで大きく変わって来る。
 
未来と過去が大きく異なる点は、過去の精神的な物事は外界での現れを持ち、未来のそれはまだ外界での現れを持たない、純に精神的な世界にあるという事。
 
過去からの法則や命令からどれだけ自由であれるかは、
精神的、霊的な体験の大きさや深さ次第であり、
僕以上に精神界に基盤を持てる人は当然ながら、もっと過去から自由であり、大きな精神的な創造力を持っており、より遠い未来を見る事もできるだろうし、
霊界を足場として、過去になかった新しい創造を生む事においても、僕の個人的な能力を上回るのだろう。
 
自由の創造には限界がないのは確か。
自由は荒唐無稽の宇宙の彼方に固定されている客観として見出されなくても、些か損なわれない。
自由選択は思考の選択にも及ぶ。
 
必然的に何かを考えないといけないのであれば - 例えば論理法則の果てしない追及を、自分が追従すべき義務とするならば - 僕は考えや思考法則としたものの奴隷であり、自由でないけれども、
僕の自由選択は、徳の観点から必要に応じてそうした論理法則の追及もできるとおもえば、そうでなく、論理でない別の物事を根拠とする事もできる。
 
人間の頭脳や考え以上に高次のものは世界に存在しないと言う人もいるけれども、
実際の話、沢山ある思考内容から自由に選ぶ選択の自由は、
思考以上の存在を前提とする。
 
「あの思考内容をもう少し深めてみよう」と考える時、
その考えの前には何があるか。
 
欲望があったのだろうか、固定観念からの執着があったのだろうか、何があったのだろうか。
思考が起こっている時、その起こっている思考を同時に観察する事はできない。
 
考えている時はいつも一つの考えしか持てない。
しかし考えて来た物事を後から思い出す事はできるし、そういう形で「思考内容を観察」する事はできる。
 
沢山ある思考内容の中から選択する単なる考え以上の自我を持つのはすぐにでも確かめられる事だと思う。
 
世間が尊敬して止まないアインシュタインは、物理と数学の天才であったけれども、「法則に思考方向を決定させる」当時の物理学者の職業病からは自由では無い時も多かったし、そのような事を本人が時折自覚していたかどうか定かではない。
 
とりわけ戦時中はアインシュタインの思考傾向も完全に「論理の奴隷」と化したのは次のエピソードを見ても解る。
 
妙な飛行物体について知ったアインシュタインオッペンハイマーは、それが過去からある物理体系から説明ができなかったのだろうか。ひどく動揺し、大統領に進言をしている。
 
次のようなものだった。
ー 宇宙人は人間より高い知恵をもっているか、いないかのどちらかである。
ー 宇宙人は闘争的であるか平和的であるかのどちらである。
ー 宇宙人は地上の一番強い勢力より強い勢力を持つか、それ以下の勢力を持つかのいずれかである。
ー 宇宙人は一国による世界支配の後に地球を襲うか、襲わないかのいずれかであり、地球人と手を結びたい事も可能性としては考えられる。
ー 宇宙人は一つの民族であるか、異なる様々な種族を持つ。
ー 既に宇宙を広く支配粋に置いた種族もいるかもしれない。
ー いずれかは解らないが、万全に備えるのであれば、宇宙国連参加への準備が必要である。
 
とりわけオッペンハイマーに関しては、
その論理的な歴史観から、
世界平和の実現の為に原爆を落とす事に抵抗が無かった。
 
オッペンハイマー個人が判断を下したのではなく、論理法則が客観的に手を下した。彼は自由でない道具になる事を選んだと言える。
 
そこには、思考内容と自我の結びつきさえ放棄し、過去からの法則に対して受動的になり、創造力と判断の自由を失ってしまった人間が伝記などから見出される。
戦争という狂いの中で、最終的には自我の崩壊にまで進んだ。
核分裂は原子の中だけで起こったのではなく、
人間の核においても起こった事になる。
 
職業として、思考以上のものの存在を一番良く知っているのは、日本社会がその重要性を理解していない職業の人々、
俳優業の人々だったりする事もある。
 
実は、俳優は偉大なアインシュタインが知らなかった事を日々行っている。
 
自由である為には、社会で誰が一番偉いかと定義したがるハイラヒーにはやはり注意しないといけない。
 
定番の真似事をする草芝居レベルの俳優はそこには入らないかもしれない。しかし、キャラクターの思考内容を役作りに含む本格派の俳優ならば皆知っているし、訓練している。
 
殺人鬼の役でもヒーローの役でも、「役が持つ考え」を考える。
考えている真っ最中である思考について同時に思考する事はできないが、俳優はその思考が起こるプロセスまでドラマのシチュエーションや作品上の必要の中で作って行く。
イマジネーションは思考を包容する。
 
ー 意識より高いところにある自我が思考を動かす - 
時には潜在的にある意志も思考を動かす。
 
霊的な六感が働かなければ、思考や行動を生中継でコントロールする事などできない筈。
 
練習を積む事で、人はそれができるようになる。
 
哲学者の役を演じる時、その哲学を全て自分のものとして体得し、その中で「役」を「自身」として認識し、普通に考えたり行動したりしないといけない。
俳優が「哲学者の役」をもらった時には当然、役の哲学まで体得する。
 
まったく役の中にいる自分を意識していないのか。
まったく意識を無くしてしまった日には、その俳優は精神病院行きになる。
そういう悲劇は非常に稀であるけども、時たま起こる。
その為、俳優業に関しては精神不安定の時に役に深く入り過ぎる事はとても危険。
 
健康な人間が「変身」を試みた場合、ある限界の一線があり「意識の防御反応」が身体が自我から離れてしまう事を阻止するように働く。ー つまり日常の意識に呼び戻される。
 
俳優の場合、この境界の一線をかなり自分から離れたところに置いても大丈夫だと知っており、想像の中の他人になってしまうか、自分に戻れるかのギリギリのところでバランスを保つ事ができるが、自我が弱いと様々な後遺症に苦しむ事になる。
 
基礎の護身術は知らないといけない。
一番自分の求める事に矛盾がない、いわば自我が非常にクリアな状況において、より深く役に身を投じる事が可能になる。
 
経験がない人には妙に感じられるかもしれない - 自分の「普遍的な自由な自我」の存在を俳優はどこで一番鮮明に体験するかというと、一番深く役の中に入っている時に体験する。
 
普遍的な自我とは何かを考える上で興味深い職業だと思う。
 
普遍的な自我と常に一体であるのは、聖者くらいのもので、
他の人々は、その存在を日頃には左程深く認識しておらず、
ある偉大な瞬間にて、その普遍的な自我に言葉通り「出会う」。
 
ー 本当の自分自身に出会う。ー
 
本当の自分自身に出会った時、人は偽りではなく自分を愛す。
 
また、それは如何なる束縛からも自由であり、己を決定している自由な存在である事も解る。
 
究極な自由がそこにある。
その出会いはあまりにも素晴らしいので、それが病みつきになり俳優業を続けているという人は結構いる。
 
俳優業は一つの例です。
 
すなわち、人は日常の中でも時々、自分の客観的に良いところを見て愛す心を持てば、自分の普遍的で自由な自我と良い接点を保てる事ができる筈。
また運命的な瞬間;例えば自分の命をかけて人を救うような場面にてそれを体験したり。。。
 
レスキュー隊員の仕事に病みつきの人も、本当の自分に出会う事に病みつきの場合が多いかもしれない。
 
とかく天職の中にいる時、人は自分の普遍的な自我に近いところにおり、創造の自由も発想も自由になる。
 
本当の教育は、その人その人の使命を生きる上で良い準備を行うものでなければならず、一律に使命を与えるなどという事はあってはいけない。
 
それは勝手なし放題とは別の、徳の次元にある「本来の自由」からの観点から間違っている事と言えるかと思う。
 
徳である物事を既にある固定系として想定するか、
あるいは常に新しく発見する活動の中に想定するか、
 
そこの部分の理解次第で社会も教育も全然別のものになる。
 
世界を変えるアルキメデスのテコはあるか?
 
普遍的な自由への理解はそのようなテコであると解釈する。
 
人が固定観念、慣習、あるいは性格的なもの、病気や偏った人生経験から自由になりたい時、様々な創造的な活動に加えて、芝居や演技をする機会もあると非常にいい。
 
自由な創造をする機会を持つ人達は日常生活に戻っても、発想がより柔軟になったり、新しい発想を生みやすくなったり、自由の体験のいい影響が沢山ある筈。
 
芸術をおろそかにする社会は未来への発展を肯定しない社会であり、未来を作る社会は芸術を積極的に様々な活動に取り入れる。
 
芸術を営む権利は人が元来有する自由な権利であり、
 
芸術と親しむ生活を人々から奪う事は人権問題。
 
糧を奪う事に等しく人権問題だと理解する。
 
別の言葉で、芸術をおろそかにする社会は、そこにある人権問題を解決する手立てを持たない。
 
人は芸術をする時、芸術をする事のみの為にあり、それ以外のあらゆる要望から自由な状態にあり、一番精神が自由な状態にある。
 
芸術は芸術の為にあり、それ以外の何かの手段としてある訳ではなく、もしそれでも手段としてあるとしたら、自由を体験する手段としてあるとは言える思う。
 

地方創生などが、芸術無くして起こらないのはこうした事からも理解される。